第七回、感情、共感コンテンツとオタクの凋落

コラム

 最近のネットを見ていると、かつてオタクと呼ばれていたであろう人々の凋落と空洞化が著しく、大きく変わった時代の様子に深いため息がこぼれる。例えば、『オタクはフィクションをたくさん読んでいるから陰謀論に引っかからない』みたいな言説などもそうだろう。実際にはここ最近のオタクは陰謀論に引っかかり過ぎ、様々な派閥に分かれて混沌とした言い争いや、しばしば誹謗中傷にまで発展している状況が頻発しており、以前なら少し考え難い世相になってきている。

 これは一定水準の知識や認識、そしてモラルさえ共有できなくなってしまった状態であり、本来のオタクというイメージにつきものだったその道の専門性みたいなものも怪しい状態で、既にかつてのイメージのオタクではなくなった存在であることを暗示しているに等しい。

 こうなってしまうと、オタクというのはともすれば秘めたほうが良い趣味嗜好を好む、あまりクリエイティブとは言い難い集団と化してしまい、かつての宮崎勉事件から社会の排斥対象にまでされかかったオタクの地位向上を頑張ってきた先人たちの労苦も水の泡となりかねない。とても嘆かわしいが、もはや嘆かわしいを超えて危機感を覚えるべき段階であり、なぜこんな事になったのかを考える必要が出てきた。

 もっとも、考えるといっても、既にそこそこに歳を重ねた私にはリアルタイムに流れが可視化されているため、自分なりの答えを導き出すのは難しくない。理由としては、

『オタクを構成する人たちの摂取するコンテンツが、読解型から感情・共感型に変わったため』

 これが最大の要因であろうと思われる。web小説界隈でしばしば叫ばれる『何も考えずに楽しもう』系のコンテンツの台頭が原因の一つだろう。非常に砕けた言い方をすれば、ある時(アニメやラノベ等でキャラクターの商品化が顕著になった頃)から、オタクたちは物語や設定の解釈よりも、例えばキャラクターたち、特に自分たちのお気に入りキャラクターのあざとい演出について仲間と盛り上がれればそれで良い人々になっていき、結果的に自分たちの盛り上がった感情とそれを共有してさらに拡大する共感を至上としていき、ネガティブな影響としてはこれを害するものに対しての攻撃性もまた高くなったのだろうと思われる。

 ここに、かつての2ちゃんねるやニコニコ動画などで発達した、『自己正当化・脳内勝利による現状の自己の肯定』の思考法が不幸な結びつきをしてしまったようで、これが猛威を振るっているのが現在のネットの様々な界隈だろう。

 すなわち、

『自分たちの感情と共有を害するものは排斥しても良い』という考え方だ。

 これこそはデマゴーグやポピュリストが台頭し、つまるところ大規模な他者の排斥、つまりジェノサイドなどにも繋がっていく危険な精神構造の道であり、しかも不気味な事に最近の選挙等でもこれらを憂慮すべき結果が続いている。

 さらに困ったことに、軽率に危険なコンテンツを出す人々ほど往々にして反省もしないし責任を取らない傾向がある。つまり、我々は自分たちで自分の見識を守り、人生をなるべく健全に運営していく努力が必要になる。これはWebで情報が洪水のようにいくらでも手に入る時代に、むしろ本当に難しい努力をしなくてはならない皮肉な状態であり、これもまた現状に拍車をかけている。

 というのも、情報が多すぎれば読解や精査より、共感をもたらしたものの方がバリアフリーに心に訴えかけやすく、それを信じた方が楽だからだ。しかしここに、大きな問題がある。

『感情はそこまで正しさを担保しない』ためだ。これはネットで誤情報が容易く拡散する現状を見れば反論の余地はないだろう。

 さらにここに、『自分の見識は正しいのか?』という問いが発生しているが、感情はこれもすっ飛ばしてしまう。『健全な判断』という作業において、ここですでに二つのチェックポイントを無視してしまったわけだ。これでは、いずれ事故が起きるのも当たり前の事だろう。そして、その事故があちこちで同時多発的に起きているのが現状となる。

 この結果が自分のお気持ち大正義で法やモラルまで無視するモンスターたちの戦場であり、もはやそこにかつての尊敬すべきオタクたちの姿はない。

 では、私たちはどうやってこの他人事ではないオタクの凋落に対応していけばよいのだろうか? 次回はそれについて語ってみようと思う。