第六回、村上春樹作品への感想に垣間見えた、とある問題

コラム

 Xで『かつて村上春樹を気持ち悪いと感じていたが声を上げる事が出来ず、時代が変わって共感を得られるようになって嬉しい』という趣旨のポストがあり、これに対して出版・小説界隈の人々が『そんな事はない、当時からかなり批判されていた』という言説を揃って唱えていた。

 この出来事は私から見ればとても示唆に富んだ興味深いものだった。というのも、私の感覚としては前者が正しく、しかし事実関係はおそらく後者だからである。この出来事は小説・出版関係の業界閉そく性と、一般社会との乖離を如実に示していると言えるだろう。

 まだインターネットがない頃の記憶をたどると、思い出されるのは新聞や雑誌などで執拗と言っていいレベルで広告されていた村上春樹の小説群であり、もともとの読書好きよりちょっと軽い層の人々が村上春樹作品をやたらともてはやしていた記憶がある。つまり、ガチの読書好きではない人々が手を伸ばして褒めていたためにカジュアルに広がっていたが、これは確かに否定的なことを言いだしづらい空気ではあった。

 そして私も村上春樹作品を幾つか読んで、『これを小説・出版界が全て肯定的に見ているとは考えづらい。しかし、広告の氾濫を見るに金になるからほぼ全肯定だったのだろうか、ちょっとよろしくない界隈だな』という感想を長く持つに至っていた。それから実に三十年以上の時を経て、ここで冒頭に寄せたXでの騒動を見、むしろ相当に批判・批評があったことをようやく認識できたのである(これは、調べればよかったのに、という話ではない)。

 さらに今度は、村上春樹作品に対する強い否定的な声に対して『届かなくてもよい人々に届いてしまった』というポストを見かけた。これも同意できるが、つまり村上春樹作品は広告が過剰であり、一方で肝心の小説界隈の専門家から上がってきた否定的な声や批評はほとんど届いていなかった、というアンバランスさが明確に浮上する事となった。この経緯及び結果は、私が日々問題だと思っている小説および出版界隈の諸問題の構造的な原因と結果の顕著な一例という気がして来て、今回のコラムのテーマとなったのである。

 すなわち、出版・小説界隈はつまるところ刹那的であり、客観性とバランス感覚がずっと不足気味であり、それは長期的に見て決して良い影響は出ず、その結果がじわじわと良くない累積として読者離れが出続けているのが現状であり、それは今後も続くのではないか? ということ。平たく言えば『売り方・広告が偏り過ぎてて長期的にはファンが離れやすい構造になっている』と言えばよいだろうか。

 黙っていても小説を買う人々が一定数居る一方、それだけでは見える数字も限られるため、出版社はとにかくたくさんの人に本を売りたいという幻想を常に持っており、だからこそ真の一般層に向けた広告を打ち出したがる。これは商売としては何も間違っていないのだが、一方で扱っているものが多分に知的な文化的性質をはらむものなので、ただの商売としてやってしまうと毎回このような問題が生じることに気付かなくてはいけない、と考えさせられた。

 極端な話、この部分の思想を抜くなら小説投稿サイトでやっているように安易な娯楽作品をランキングで競わせて人気のある物を拾い上げて書籍にするという焼き畑を延々とやっていればよいが、それは先進国つまり文化水準の高い国や社会がやっていい商売のモデルとは言い難い。おそらくいかなる商売も、大義があって初めて搾取から離れ、正当化されるものだと私は思うし、特に出版社の大義とはおそらく文化の保護者であること、だと考えるからである。

 さて、ではどうしたらよいのだろうか?

 おそらくだが、出版社はその俯瞰的な視点の正しさによってのみ大義の面は担保されるのだろうと私は思う(商売としては販路と資本力であろうが)。よって、当初の村上春樹作品のうるさいほどの広告についても、批判・批評もほぼ必ずセットにしていれば、むしろ読者もまた議論に参加でき、長い間うつうつとしたものを抱えずに済み、村上春樹が好きな読者と、好きではない読者及びその読者が納得できる批評、およびその視点からの村上春樹とは対極的な作家や作品ももっと売ることが出来たのではないか? 少なくとも批評と合わせて商業的にももっと活発化できたのではないか? と思う。そして、このような姿勢であれば遠ざかり続けた一般社会との距離も少しは縮まるかもしれないと思うのだ。

 今回のXの議論ではそんなことを考えたし、できればこの発見をより発展させて今後の出版事業に生かしたいものと考えてもいる。

 それでは、また。