第八回、感情を信じるな!

コラム

 前回でオタクの凋落と感情・共感優先のコンテンツの関連性と問題点、そしてまさにそれが問題になっている現状について述べたが、ではどうしたらよいのだろうか?

 まず、大事な事は感情をそのまま発露させることはしない方が良い、という事だ。極端な話、社会の無数の法やモラルというものは、感情に沿ったままの行動を取らせないように存在しているに等しく、感情にそのまま身をゆだねて行動する事は多くの場合は自他を毀損する危険性が含まれている。この認識を持たねばならない。

 もっと厳しい言い方をするなら……。

 私たちは所詮賢いだけの猿である、という言説がずっと存在しているように、感情に身を任せるそれは悪い意味での先祖返りであり、いかにも人間的な賢さ、あるいは狡猾といってよいそれで世の中を動かしていく人々に勝てるはずがなくなるのだ。まさに『萌え豚』なんて表現がしばしば用いられたりするが、本当に知らない間に家畜化されていく可能性がある、という事だ。

 そんなバカな? とあなたは思っただろうか? 

 例えば、ふと自分の人生を考えてみて欲しい。あなたが当たり前に抱えている意識、例えばよくある『将来への漠然とした不安』など、それはあなたが本当に自分の意思でよく考えて獲得した懸念だろうか?『世の中がそうだから』『みんなそうだから』『何かで悲惨な例を見たから』なんて事はないだろうか? そして、それらについて思い悩み、必死に働いてなお消えない不安感を抱えてはいないだろうか? 実はそんな所から既に感情によって人々を動かす遠大な社会の運営、あるいはマーケティングは常時展開されているものだ。これもまた感情・共感のコンテンツの一端と言えるだろう。

 しかも、ネットの普及によって非常に短絡的な感情・共感型コンテンツが台頭した事により、現在はその害と恐ろしさが可視化されやすくなっており、この機会に自分もまた何らかの感情を動かすコンテンツに毒されて不自由になっていないか、よく考えてみるのが大事だろう。この意識は常時持った方が良く、感情を揺さぶる情報を得た際にはいつも省みるくらいの姿勢でないとやって行けない世の中になってしまっている。

 さて、とても前置きが長くなってしまったが、ここからが今回の本題だ。感情に流されない為にはどうしたらよいのか?

 まず大前提として、『感情をあまり信用せず、これを分析または批評する癖をつける事』だろう。自分はなぜ不安を感じたのか? 自分はなぜ怒りを感じたのか? まずここから始めなくてはならない。『頭に来たから頭にきた』では人間ではないし、よく見られる失敗だが、この感情に後から理由を添わせて正当化するのも間違いだ。

 感情を動かす何か、とは、いわばあなたという材木に振るわれたのみであり、この材木に眠る自分の心の形が一瞬露出したものだと思えばいい。しかしそれは多くの場合、自分の理想とする形ではないだろう。人はしばしばこの事実を認めたくなくて怒る事がある。だからこそ、簡単に感情を動かさず、自分という人間を理想的な形に仕上げていくために、この鑿が自分に容易く通らないようにして、理想的な自分の形に仕上がるように導く必要があるのだ。こうなれば感情を動かされる経験はいちいち小さな学びの機会となり、自分という人間の形をある程度は理想的な形に整えていけるだろう。

 そして、それでも収まらない怒りの感情などは、何度も何度も自分を焼いて叩いて鍛える火にしていけばいい。これを習慣づけるだけでも、やがてあなたの人生はだいぶ落ち着いた豊かなものになっていくはずだ。もっと砕けて言うなら『感情を動かされたら深呼吸しろ』と言ってもいい。隙があればあなたをカモにして無駄な時間とエネルギーを消費させ、思考停止した働く猿にしようとする動きに吞まれてはならない。それは、ともすれば大いなる搾取の枠に自他をはめ込むだけなのだから。

 さらに困ったことに、この世の中は資本主義であり商業主義で出来ている。つまりあなたの人生に無料に等しく飛び込んで来る情報には、そこから利益を得んとする意志が常に働いている事を毎回思い出してほしい。これこそが、あなたの感情を特に親しくもない人たちが動かそうとしてくる理由という事だ。つまり、誰もあなたの人生の事など親身には考えてはおらず、あなたの感情が動いて金になればいいのだ。そんなものに翻弄されてあなたという人間がまっとうに仕上がっていくのはとても難しい事だろう。

 この視点で世の中や周囲を良く見直してほしい。あなたにとって本当に有益な情報はごくごくわずかであり、私たちは泥水の氾濫しかかっている川で砂金を探すような生き方をしなくてはならず、それでやっと少し自分の人生を良い方向に導ける可能性が出てくることに気付くだろう。